Takecの本ブログ

好きな本について。毎月『きっかけ読書会』を主宰。

道徳的に生きる

NHK 100分 de 名著 カント『純粋理性批判』 西 研(NHK出版) 
 

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カントが哲学者で一番優れている、とゲーテは言っていたようです(『ゲーテとの対話』より)が、
個人的には難解そうで近づきがたかったカント。
 
でも『100分 de 名著』シリーズならやさしく解説してくれてるし、理解できるだろうと思い、読んでみました。
 
著者によると、古今数多の哲学書の中でも五指に入る重要な著作とのこと。すごいですね。
 
正直、個人的には認識論についてはあまり興味がないのですが、「善く生きること」についての考察は示唆に富んでいると思います。
 
・感性(欲望)からの影響があっても、できるだけそれに負けず理性の声に従う
・道徳的に生きた結果として「幸福に値する」
 
アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にも共通する点があるように思えました。
偉大な哲学者の思想に触れてみたい方にはおすすめです。
 
僕はこの本を読んで、やっていきたいです。
 
・感性(欲望)からの影響があっても、それに負けず理性の声に従って行動する
・他者や社会に善いことをする。利他、GIVE、手助けをする。
 
本文の内容を一部紹介します。
 
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そんな著書をあえて取り上げることにしたのは、古今数多の哲学書の中でも五指に入る重要な著作だからです。
この本でカントは、人間が備える理性の限界を明らかにし、近代哲学が直面していた難問に体系的な答えを示しました。
 
科学だけでは人間が生きていくには足りない。人は「よく生き得る」ことを求めているのだから、よく生きるとはどういうことか」という問いに答えなくてはならない、と。
 
 
カント認識論のエッセンスは「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」
 
純粋概念として四種12個のカテゴリーを備えていると述べています。
このカテゴリーとは、思考の基本的な形式のことです。
 
相互性
様相(ある命題について、その確からしさを判定すること)
 
・私たちは「感性」と「悟性」の二層で世界を認識している
・直観をつくる感性は、空間と時間という二つの枠組みをアプリオリに備えている
 
数学と自然科学を基礎づけるためです
 
あらゆる変化には必ずその原因がある
 
これについて私の結論はこうです。どこかに「ほんとうの私」を求めるのではなく、「どんなことに私は喜びを覚えるか」を自分に問い、そこから生きる方向を見つけていく答えはない。
 
神の存在についても、どんなに議論しても証明不可能だとカントは結論づけています。
 
理性は完全なものを理念として思い描くのですが、その働きがもっとも有効なものとして発揮されるのは、実認識や理論の領域ではなく、行為の領域だとカントは考えます。
 
カントも仏陀とよく似た考えです。答えの出ない問いは捨て置けばよい、大事なことは「よく生きる」ことだといって、道徳の問題のほうに哲学の軸足を移そうとしました。
 
カント自身の言い方では、「最高の善い生き方をせよ」と理性は命令を下すのです。
 
つまり人間は、他者を尊重しながら、社会の一員としてふさわしい道徳的行為を考え、選択することができます。
こうして、理性的判断にもとづいた道徳的行動にこそ人間の自由がある、とカントはいうのです。
 
カントにとって「自由に生きる」とは、人に言いなりにならず主体的に考える姿勢であり、そして主体的は判断に従って道徳的に行為することなのです。
押さえておきたい点は、カントのいう自由とは「勝手気まま」「欲望の開放」ではない、ということです。自由とは「何が善いことなのか」とみずからに問いかけながら生きるところにあるのです。
 
カントのなかで道徳が自由と結びついていることがおわかりいただけたと思います。
そして、ふだんの生活でも主体的な道徳的判断が大切である
 
しかし問題となるのは道徳的に生きることがそのまま「最高の生き方」といえるか
 
傾向性をもつ感性
これに対して、「道徳的に生きよ」と命じるのが理性の働きです。人間は一方で、欲望と傾向性によってひきずり回されますが、それを理性でもって「正しい行為かどうか」と判断し、コントロールしようとします。
 
つまり人間は、いつも感性(欲望)と理性の二つによって引っ張られている存在なのです。
生身の人間であるかぎり、感性からの影響を完全に脱することはできません。ですが、感性からの影響があってもそれに負けず理性の声に従うようになればなるほど、道徳的に進歩したことになるわけです。
 
そしてカントは、道徳的行動を命じる実践理性をもっているところにこそ、人間の尊厳があるといいます。
 
その人もまた自由な意志と想いをもつ「人格」であることを認めなくてはならない
 
どんな人も自分なりのルールをもっているけれど、それが自分勝手なものになっていないか、絶えず吟味しつつ行動しなさい
 
カントの道徳思想が、独りひとりの人格を尊重する点でとても近代的なものであったことが注目されるべきです。
 
道徳法則は「権威」から下されるものではありません。人々が互いを尊重しながら共存するためのものであり、それが正しいかどうかは一人ひとりが自分で判断できるものでした。まさしく自由を基礎とした道徳論であるということができます。
 
カントはこの本の最終盤で、人間の理性はどんな問いに向かうかについて、次のように総括しています。
 
①私は何を知りうるか
②私は何をなすべきか
③私は何を望んでよいか
 
道徳的に生きる人は幸福を得る資格がある
 
道徳的に生きた結果として「幸福に値する」ことになるとカントは考えます
 
カントは、道徳的に生きるという新しい理想を示しました。
あらためて確認しておけば、彼が実現すべき世界として思い描いていたのは、身分の上下がなく、すべての人が自由で対等な存在として尊重しあい、調和して暮らしている世界です。
 
この道徳論には、次のようなメッセージがあったと私は思います。
「どんなに貧しくても苦しくても心正しく生きよ」そこにこそ、理性的存在者としての誇りがあるのだ」また、「自分が正しいと判断したことは、まわりの人がすぐに納得してくれなくても、とことん貫いて生きていけ」と。
カントの道徳思想は、社会のなかで成功や富や評判にまどわされない、人としての最高の生き方を示すことであり、そして、新たな自由な生き方への呼びかけでもありました。
この思想にドイツの若い世代は感激しました。
 
カントのいう「道徳的な生き方」には、自分自身への配慮が含まれているからです。
他者の幸福を考えて行為するだけでなく、自分のことも尊重し、自分の能力を進歩させなくてはなりません。
 
私自身としては、カントが楽しさや美しさの味わいよりも、道徳的に生きることを優越させた点で、やはり偏りがあると考えます。
 
「他者や社会によいことをする」ということが、人生を形づくる大切な価値のひとつであることは認めてよいのではないでしょうか。
 
カント最大の功績は、自然科学と生きる上での価値について、両方を見渡す哲学を築いたところにあると思います。
 
人間が先で科学は後なのです。
 
科学の知識は重要だが、それだけでは十分なものではないこと。なにより、人の生とそこでの価値を解明する必要があることーこれがカントが今も私たちに発信しているメッセージであると思います。
 
カントの哲学に課題がないわけではありません。最大の難点は、道徳を議論不可能な領域においてしまった点です。
つまり、カントの道徳論について、何を根拠にして賛成したり批判したりすればいいのかわからないというこどです。