Takecの本ブログ

好きな本について。毎月『きっかけ読書会』を主宰。

デカルト入門

デカルト入門講義』冨田恭彦
 
色んな本で、哲学者のデカルトの思想の偉大さに触れた記述を見かけます。
『まんがで読破』シリーズの『方法序説』を読んでみたものの、あんまり理解できてる気がしないので、入門書を読んでみようと思いました。

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そして、読んでみたものの、その偉大さがあまりわかりませんでした(笑) 
 
「物体あり」
「神あり」
   
がわかったとしても・・・
現代人にとっての実用性はないのか・・・
   
一つだけ引かれたのは、「私たちが行う判断は、知性の働きに基づきつつも、最終的には意思の働きによる」という文章でした。
事実は一つ、解釈は無数、と聞いたことがあり、事実に対する意味付けは人それぞれということと似ている意味なのかとも思いました。
 
「事実に対する意味付けをもう少し俯瞰した視点で考えてみる」ことをやってみます。
 
でも西洋思想に大きな影響を与えたのは事実のようですね。
 
ゲーテが哲学を「役に立たないもの」と『ゲーテとの対話』の中で言っていたように、自分にとっての実用性はあまりないのかと思いました。
哲学は好きだけど、しばらくちょっと離れようかな。
結局入門できてないやん!と自分にツッコミ入れたくなりますね笑
まあ読書にはそういう時もあるでしょう。
 
 
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デカルトの第一哲学(形而上学)は、彼の自然科学とともに、長い間西洋世界を支配してきたアリストテレス風の考え方に異議を唱え、学問のあり方を刷新しようとするものでした。
 
スピノザやロック、ライプニッツ、バークリ、カント等等の思想に如実に表れます
 
西洋の学問の革命的刷新を図ろうとしたデカルトがどれだけの影響力をのちの西洋思想に与えたかを理解しなければ、西洋精神史は語れないと思っているからです。
 
デカルトは学問を進めるにあたって「方法」をとても重視します。
 
私たちが明晰・明証的に把握するものだけを受け入れるという原則、複雑なものを単純なものに還元し、単純なものについてそれが明晰・明証的に真であることが確認できれば、そこから順を追って複雑な込み入ったものを正しく捉えることができるというデカルトの考え方
 
デカルトは明証的なものしか認めず、どんな難しい問題でも、単純なものに分解し、それらの検討から始めて一つの一つ順を追って飛躍することなく進むなら、きっと道は開ける
 
少しでも疑わしいものな偽とみなして排除する
 
 
考えているものが考えているまさにそのときに存在しないというのは矛盾しているからである
 
はっきりと捉えられると思われていた物体よりも、それを捉えている心の方がいっそう明証的に捉えられる
 
私たちの感覚器官を刺激する物体と、その刺激の結果私たちが感じる色や形は、別ものだということになります。
 
私が持っている神の観念は、私が作ったものではありえない。したがって、それはその内容と少なくとも同等の内容を持つものが実在して、それが私に持たせたのだと考えざるをえない。それゆえ、神は存在する。これが、デカルトが、『省察』で行う、1つ目の神の存在証明です。
 
デカルトは、私たちが行う判断は、知性の働きに基づきつつも、最終的には意思の働きだと考えている。
 
ではなぜ私たちは間違えるのか。そのかいとうが「知性」と「意思」の連携の中で、わたしたの意志の使い方の問題に求められるのです。
 
デカルト形而上学の議論においては、そのいくつかの要素を、彼の自然科学的見解が占めているのです。
 
この点を押さえておくことは、デカルトを理解する上で大変重要です。
 
明証的に知るのでなければ、決して真なるものとして受け入れないこと
問題を必要なだけ小さな部分に分割すること
何も見落としてないと確信できるほど、完璧な枚挙と全体にわたる点検を、あらゆるところで行うこと。
 
デカルトは明証的に知られる第一原因もしくは原理から始まり、論理の飛躍なしに他の全体が順次導出されるような、そんな学問のイメージをもっていました。しかし、実際に彼が第一哲学で行ったのは、明証的とは言えないものや、自然学の分野の仕事の中で彼が強い確信に至ったものを必要に応じて用いながら、「我あり」、「物体あり」を順次確認し、されと並行して心と物体が全く異なるあり方をすること、物体は数学的に扱えるものがその本質をなすこと、そして人間の場合似は心と物体(身体)が合一していることを、明らかにしようとすることでした。
 
デカルトのような基礎づけ主義的な営みがなければ、二十世紀に特に顕著になった半基礎づけ主義的哲学運動も、その姿を鮮明にすることはありえなかったでしょう。ですから、その意味で、デカルトの第一哲学の営みを評価せずにいることや、ありえないことだと思っています。
 
 
すべてが夢幻のごときものだとしても、ひとり私はこのように存在している、という感覚は、それだけで結構多くの人々にとって、共感できるものだったのです
 
 
デカルトは、時代こそ異なるものの、西洋近代に生きて西洋近代哲学を牽引し、のちのちまで大きな影響力を行使した、巨人的存在だった